2006年11月25日
熊野古道
紀伊路・中辺路ウォーク
13回シリーズのF回目

かぶら坂・拝ノ峠
大阪梅田7時30分
橘本王子跡所沢王子跡山路王子神社一壷王子跡
拝ノ峠 蕪坂塔下王子 爪書地蔵 山口王子跡




長保寺
本堂・塔・山門 と 三つそろって国宝である寺は、奈良の法隆寺と この長保寺だけです。
いずれも日本の中世を代表する建造物で、境内の広さは約1万5千坪、全域が国史跡に
指定され、背後の森は和歌山県の天然記念物です。 





長保寺は、大名の墓所としては全国一の規模を誇り、紀州徳川家廟所は四段構えになって山中に広く展開しています。
初代から六代藩主まで墓碑銘がありません。これは戦いが起こった時に、簡単に敵に墓を荒らされないように、どこが誰の墓かわかりにくくする為だと云われています。八代将軍の吉宗と十四代・家茂は将軍となった為、此の地でなく、江戸に葬られました。






シリーズ1回目では、ここから出発し、藤白坂を下って藤白神社へ至りましたか゛
今回は、かぶら坂・拝ノ峠と…熊野に向かって進みます。





所坂王子跡・〔橘本神社〕
橘本神社はお菓子の神様、田道間守を祀る社。
菓子造りの信仰を集め春の菓子祭は盛大です。





田道間守〔たじまもり〕
橘本神社の境内に田道間守の歌の碑がありました。
確か六十数年前、尋常小学校の頃、学校で習った記憶がありますが
が出てこない…気になるので徹底的に調べてみました。







一壷王子跡〔山路王子神社〕
この社は「泣き相撲」で有名です。

緑泥片岩の石垣を四段に組んだ真ん中に社殿への石段を設けた壮麗な
配置は、往昔の王子社の原型をとどめるものとして、貴重な存在です。
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いよいよ蕪坂・排ノ峠への挑戦です





最近、万葉歌碑が建立されました。
安太へ行く 小為手の山の 真木の葉も 久しく見ねば 苔むしにけり
〔原文〕安太部去 小為手乃山之 真木葉毛 久不見者 蘿生尓家里 〔巻七-1214〕
〔読み〕 アテエユク サイデノヤマノ マキノハモ ヒサシクミネバ コケムシニケリ





麓に、立ち寄った長保寺が見えます
条件がよければ、淡路島、大阪湾&四国まで見えるらしいです


紀伊国名所図会 の 蕪坂峠眺望の図は・・・下の写真の上にカーソルを・・・
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蕪坂塔下王子
海士郡と在田郡の境に位置し、紀伊国名所図会によると茶屋が在ったらしい。




たちのみや
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立ち飲み屋
ではありません、太刀の宮です。
その昔、大阪冬の陣(1614年)のこと。宮崎城主の三男定直が真田幸村に招かれて、
大阪方面へ入城 秀頼公の旗下に属するが淀君のはからいにより早春に出場しました
故郷の宮崎に帰る途中、蕪坂を越し御社の神前で休んでいたところ夢を見、「大勢にて
取り巻きく故、防がんと思うが 身体自由にならず、誠に九死に一生の思いなるところ、
帯せし太刀自然と抜け出て多人数を追い回す。夢はさめ辺りを見るに死人数多く、太刀
は中程より二つに折れてあり、夢なれど人の切られたのは真故、不思議に思い折れた
る太刀を繋いでみるとこれまた不思議、元の如く継げたり。先剣の御徳を尊み、又御社
の神徳を尊み『折継丸』と名付けて、その社に納め候なり」という記述から、人々はこの
社を『太刀宮』と申すようになりました




爪書地蔵
この堂は古く遍照山金剛寺と称し、堂内には4m余の自然石に阿弥陀と地蔵とが線刻されている。
室町時代の作であろうが、弘法大師が 爪で書いたと 伝えられており、そのとき爪が 痛むので、
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弘法大師が近くの家を訪れ、椿油を乞うたが断られた。 それ以来この辺りの椿には不思議なこと
に油ができなくなった、という伝説も残っています。                            
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峠を越えると有田が見えてきました。
         急勾配の坂道を一気に 宮原の里へ





山口王子跡
山口王子坂跡までで坂道はおしまい、
ゴールの宮原駅までは約2キロ強の町並みウォークです。






伏原の墓
熊野参詣の途中、病などで生き倒れた人の霊を回向し慰めるために
遺族やこの土地の者が造った墓石を集めおいた場所。        
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昔の旅人は、たしなみとして身の始末だけはしてもらえる金を着物の
襟に縫い込んでいたという。  〔合掌〕                 
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本日のゴール「紀伊宮原」
有田川を越えると、前回の糸我峠となります

次回は、悪四郎山の予定です。





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