2006/12/14
義士まつり・ウォーク


義士祭は12月14日、これは14日に赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのに由来すると云うが、
15日ではないのかという疑問が…
当時は朝の明け六つの鐘から翌日の明け六つまでを1日と していました。従って、12月15日の午前4時頃、つまり寅の刻は明け六つまで未だ時間があり、当時としては12月14日に討ち入ったということに なるようです。



義士祭りの此の日は、赤穂の町はバス進入禁止、
我々は少し手前の町外れで下車して、ウォークです。




バス停の「ゆらのすけ」は「由良之助」。内蔵助ではなく由良之助、
そう・これはお芝居の
仮名手本忠臣蔵の登場人物は、作者が当時
の権力〔徳川幕府〕に遠慮して時代背景を鎌倉時代と設定し、
人物名も変え、あくまでもファクションとして舞台に演げた為です。
 
  もののついでに、人物名の違いを下記に記してみます0
大石内蔵助 お芝居では 大星由良之助
浅野内匠頭 −々− 塩治判官、えんやはんがん
吉良上野介 −々− 高師直、こうのもろのう




四十七士の住居跡を示す案内石柱がアチコチに点在する街中を進みます。





花岳寺
初代藩主・浅野長直が浅野家の菩提寺として建てた寺で、長直の両親の法名を
とって名づけられました。浅野家、永井家、森家の菩提寺としても知られています

義士墓所の石碑を見ると、四十七士の戒名には「刃」の文字が
これは、切腹して果てた為なのででしようか。






花岳寺の鳴らずの鐘
三代目藩主・長矩公の殿中刃傷事件後、元禄15年(1702)、四十七義士は吉良邸へ討ち入り、
翌16年2月4日、切腹しました。その悲報が届くや、人々は寺に集まり、冥福を祈ってこの鐘を打
ち続けました。「爾来、音韻を失すること50年」と、寛政9年の梵鐘改鋳の銘にあり、これがいつし
か、「鳴らずの鐘」と呼ばれるようになりました。                             

なお、本梵鐘は、太平洋戦争中も「義士との由来深きにより」提出を免れた貴重なもの。






義士祭りのスター達が、パレードの無事を祈って花岳寺にお参りに来てました。





赤穂城址
赤穂城には、五層天守が建てられる予定であったとか。 
本の丸に残る天守台は、53,000石の外様小藩にしては規模の大きいものです。 





大石神社
浅野家江戸詰の家老、藤井又左衛門と大石内蔵助の屋敷跡に大正元年に四十七義士を祀る神社
としてご鎮座。祭神は、大石内蔵助以下四十七義士、中折の烈士萱野三平を主神とし、浅野家三代
本能寺の変に散った森蘭丸ら森家の武将を合祀しています。四十七義士が苦労を重ね、長い時間を
かけて大きな望みを達成したことにより、願望成就、大願成就の神として知られ、全国から多くの参
拝客が訪れる神社でもあります。                                      






花岳寺で逢った義士のご一行と再び大石神社で…





こんな所にも、田中の角さんの名前がありましたヨ





大石内蔵助の邸宅跡
大石神社内にある大石内蔵助の邸宅跡で、見事な庭園を見ることができます。
庭園から見る長屋門内には、刃傷事件の知らせを持って参上した早水藤左衛門、萱野三平
その内容を読む内蔵助、主税父子の姿をリアルに再現した人形も展示されています





歴史博物館
外形が忠臣蔵の赤穂市立歴史博物館。なめたらあかん記された
塩の塊を、撮っていたら「撮影禁止です」と叱られました。    





昼食は赤穂城・大手門の前の「巴屋本店」で・・・





午後は各自、思い思いの場所に陣取って、義士祭りパレードの見物です。





車台の上では、忠臣蔵の名場面が演じられています。





12月14日の、この日の播州赤穂は、町あげてのお祭りムード。
幼稚園も学校もお休みだそうです。





息継ぎの井戸
商店街の一角に「息継の井戸」が残っています。浅野長矩の凶報を知らせるため
江戸から赤穂まで早籠で飛ばしてきた 早水藤左衛門と 萱野三平が一息ついたと
いわれる井戸で、その水は赤穂上水道の跡で、千種川の水を城下の各地流して
いました。 
                             
区画整理のたびに道路の向こうへ行ったり、こっちへ着たり
いつしかモニュメントとなり本当の井戸ではなくなりました。






予定を若干遅れ、午後2時過ぎ
いよいよパレードはクライマックス、本日の主人公・赤穂義士のご登場です。
マッテました〜!





ゴールの運営本部前で…
号砲一発、エイエイオ〜の四十七士の掛け声と共に、
メデタシ・メデタシの義士祭りの閉幕です




心配していた雨は終幕の3時まで、何とか持ちこたえてくれました。



前夜〔13日〕には、城跡に赤穂一夜城も灯されたようです。




今日は くどいョ。
もう少しだけ、お付合いくださいネ。



@
さて、何でもない討ち入り時の衣装、とくと ご覧下あれ。

討ち入り後は義士と、もてはやされましたが、言うなれば失業中の浪人。
このように、袖口を ギザギザに色分けした衣装を、
お揃いで 誂えることが 出来たのでしようか。






Aやはり違う
最近の映画やドラマでは、各自が目印に白い布を縫い付けた・と云う解釈です。

何か、これの方が正しいような気がします。





B待てよ
新撰組の羽織も・・・。これを創成期の映画界が真似たのでしようか。






Cいや、もう一つ
違ったかも

江戸時代の版画・芝居絵を確認したら、見事にギザギザの袖口。
歌舞伎の仮名手本忠臣蔵が、
舞台栄えするように考えたのが、このギザギザ衣装


そしてどうやら、新選組が、この衣装を真似たのでしようか。







知ったかぶり
お芝居 (歌舞伎)の、「仮名手本忠臣蔵」の「仮名手本」は何を意味しているか、ご存知ですか。
赤穂義士は
四十七名、仮名も「いろは47文字」。
四十七士を仮名文字に洒落たわけなのです

仮名手本忠臣蔵の作者である武田出雲、三好松洛、及び並木宗輔は、討ち入りした義士の数が
47人だったから「仮名手本」とした。もし人数が別の数だったら他の題目になったことでしよう
0
この狂言が討ち入り
47年後に発表されたのも偶然かも知れませんが作者たちの作意であった可能性も捨て切れないですネ。