2009年6月4日
関ヶ原古戦場ハイク大垣城

「天下分け目の関ヶ原」と云えば誰も一度や二度は耳にした事があるでしょう。
超簡単に述べると、慶長五(1600)年九月十五日、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町一帯で、毛利輝元(実質上は
石田三成)を総大将とする西軍と、徳川家康を総大将とする東軍の間で行われた戦いの事で、わずか1日で実
にあっけなく終わってしまいましたが、日本中の大名を二分した戦いでした。
     (戦いが行われたのは関ヶ原一帯だけではありませんでした。東北から九州にいたるまで、各地でそれぞれの思惑を抱く
      大小名たちが、裏切り・すれ違い・父子の訣別など様々な人間模様の渦巻く中で、それぞれの戦いがおこなわれたのでした


最近城めぐりの一環で、戦国時代の重要拠点に出掛ける機会が多くなり(安土・一乗谷・小谷etc)、コノ辺りで
日本三大内戦の一つ、関ヶ原にもと、古戦場ハイクに参加させていただきました。


   (行程)  関ヶ原歴史民俗資料館→家康陣跡→決戦地→石田三成陣→小西行長陣→開戦地→島津維新陣
           →宇喜多秀家陣→大谷吉継陣→胡麻の郷=昼食(レストハウス関ヶ原)==(バス)==大垣城




  明治政府の軍事顧問であったドイツのクレメンス・メッケル少佐は、関ヶ原合戦の陣形図を一見して、
  即座に西軍(三成方)の勝利と断じました。其の陣形はまさに「鶴翼の陣」・鶴が翼を広げ、あたかも
  敵を包み込み破滅させる理想の包囲網を築いていたからです。
  もしも関ヶ原で、小早川の裏切りが無かったら・・・
  そして西軍が勝利していたら、その後の日本はどうなっていたのでしょうか





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小早川秀秋・考
木下家定(豊臣秀吉の正室高台院の兄)の五男として生まれる。母は杉原家次の娘。幼名は辰之助。元服時の初名は木下秀俊。
天正13年(1585年)、
羽柴秀吉の養子になり羽柴秀俊と名乗る。天正17年(1589年)、病死した豊臣秀勝の旧領地・丹波亀山10万石を与えられる。文禄元年(1592年)、従三位・権中納言に叙任。文禄3年(1594年)、秀吉の命にて小早川隆景の養子として小早川家に入った。官職は中納言だったが、元服時に受けた官位「左衛門督」の唐名「執金吾」とあわせて
「金吾中納言」と称された。
文禄4年(1595年)、
豊臣秀次事件に連座して丹波亀山を没収される。同年に養父・隆景が隠居し、その領地であった筑前、筑後・肥前の一部30万7000石を継承し、筑前名島城主となった。小早川領継承にあたっては豊臣政権から補佐として派遣された山口宗永が隆景家臣の鵜飼元辰らから引き継ぎを受け、また太閤検地を実施して領内石高が定められた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に参戦。伏見城攻略戦に参加して戦功を挙げたものの、この戦功を三成が認めなかったため激怒したとも言われている。また一説に、当初から東軍と内通していたとも言われる。東軍として姫路城に入城する予定だったのが兄の姫路城代に断られて、今度は伏見城に入城しようものの城将の鳥居元忠にも拒絶されたためにやむなく西軍に加わったとされる。
秀秋の行動に不審を感じていた石田三成・大谷吉継らは、西軍勝利の暁には秀頼が成人するまでの間、関白職への就任と、上方2ヶ国の加増を約束するなどして西軍への残留工作を行っている。決戦当日、秀秋は松尾山に1万5000の大軍を率いて布陣した。
この時、松尾山には西軍の一部将兵が入っていたが、秀秋は軍勢の数にものを言わせてこれらを追い出して松尾山に陣を敷いている(この時点で東軍に加わったとも考えられる)。また、秀秋の松尾山占拠によってラインが分断される事を三成が危惧したため関ヶ原での戦闘が始まったという説があります。