2009年6月8日〜
歴史探訪
鹿児島の歴史を訪ねて







 (鹿児島県)の県名の由来と意味
鹿児島神宮(霧島市隼人町)に由来する。「鹿児島」の語源は、天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)が海神(わたつみ)宮に行く際に乗った舟が鹿児山で作られたという説や、「神籠もる島」という説、「カゴ」は崖という意味で、四方が崖に囲まれている桜島は「カゴ島」と謂われ、鹿児島は桜島の古い名であるという説、など諸説ある。現在鹿児島市と鹿児島神宮は離れているが、鹿児島郡設置当初は天降川までが鹿児島郡内であった。


九州の鹿児島県といえば、何をおいても戦国時代から江戸〜明治維新の雄、
島津氏の事を学ばねば・・・と、



まずは藩名から
島津氏の藩は
島津藩、それとも薩摩藩鹿児島藩?
変なことが気になり出したので、チョッと調べてみました。
.
そもそも、江戸時代当時には「**藩」という言葉は無かったらしい・・・
(薩摩藩は通称で、版籍奉還後に定められた
正式名称は鹿児島藩という人もいますが、)


別に江戸幕府が公式に決めたわけでも、
現在の法律で決まっているわけでもないので、
@「鹿児島藩」
A「薩摩藩」
B「島津藩」
どれでも間違いではないらしいです・・・
特に、薩摩の島津家は日本第二の大藩ですから、
@からBのどの表記でも間違える人はないでしょう。


ただし、現在の歴史の本では、@のパターンで
「藩の政庁の所在地」藩、即ち「鹿児島藩」と呼ぶのが標準のようです。


なぜかというと、
A) @の表記なら、日本に数百あった藩を全て識別できる。
B) Aの表記では、一つまたは複数の国を全て領地とする僅かな大名しか
  表現できない。
C) Bの表記では、同姓の大名が多数いたので、識別できない藩が多く出る。


例えば、
仙台の伊達家(62万石の大藩)は、
@「仙台藩」でOKです。
A「陸奥藩」と呼ぶわけには行きません。陸奥国には多くの藩がほかに存在
しましたので。
B「伊達藩」と言えば普通は「仙台の伊達家」の事を指しまが、
ただし、

伊予国・宇和島10万石の伊達家も「伊達藩」と呼ぶことが出来ますので、
混乱が生じます。
@のパターンで呼ぶのが一番分かり易いのです。


ただし、何事にも例外があります。
長門国・萩の毛利家36万石は、萩藩や山口藩とは呼ばないようで、
「長州藩」と呼ぶことが普通となっています。


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このページは私の覚書です、読んでられないでしょう。
写真ページへジャンプなさいますか?・・・→ココを





薩摩の島津氏
守護から戦国大名へと自己形成し、また江戸時代には外様大名・薩摩藩主として存続した。全盛期は、薩摩国を中心とした南九州を領有し、初代島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国の3国の守護に加え、越前国守護にも任じられている。家風として尚武を尊び、代々優れた当主を輩出したことから、世に「島津に暗君なし」といわれ、鎌倉以来明治に至るまでその社稷を守り通した。また越前、信濃駿河若狭近江に支流としての島津氏が派生しそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州、島津氏、若狭島津氏、江州島津氏と呼ばれている。


九州の島津と聞いて、頭に浮かぶ歴史上の人物は・・・
(島津 義弘)・(島津 斉彬)・(天璋院・篤姫)・(西郷 隆盛)・(大久保 利通)


島津 義弘
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、島津氏の第17代目当主。16代当主島津義久の弟であり、義久の補佐役を務め、戦国期における島津の版図拡大に大きく貢献した。木崎原の戦いにおいて日向国の大名伊東義祐率いる三千の兵に対し300の寡兵で奇襲しこれを打ち破り、伊東家をその後の滅亡へと導いた。朝鮮の役(文禄・慶長の役)で朝鮮・明軍から恐れられていたことで知られている。慶長の役の泗川の戦いでは、朝鮮半島南岸の泗川城において攻め寄せた明・朝鮮軍を寡兵を持って大いに打ち破った。秀吉の死によって日本軍が朝鮮半島より総退却となった際に起こった露梁海戦では朝鮮水軍の主将李舜臣を討ち取っている。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し敗戦となったが、退却戦においてまたもや寡兵で東軍側に突撃し徳川家康の本陣近くを通過、敵中突破を果たして退却することに成功し、この退却戦は「
島津の退き口」と呼ばれ、全国に名を轟かせた。

島津 斉彬
文化6年(1809年)3月14日、第10代藩主・島津斉興の嫡男として江戸薩摩藩邸で生まれる。母・弥姫は「賢夫人」として知られた女性で、この時代には珍しく、斉彬はじめ弥姫出生の3人の子供は乳母をつけず、弥姫自身の手で養育された。また、曽祖父である第8代藩主・島津重豪の影響を受け、洋学に興味をもつ。これが周囲の目にと映ったことが、皮肉にも薩摩藩を二分する抗争の原因の1つになったとされる。
斉彬が藩主に就任となれば、重豪のように公金を湯水の如く費やし藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと、特に藩上層部に心配され、斉興は斉彬が40歳を過ぎてもまだ家督を譲らなかった。そして、家老・調所広郷(笑左衛門)や斉興の側室・お由羅の方らは、お由羅の子で斉彬の異母弟にあたる島津久光の擁立を画策した。斉彬派側近は、久光やお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏洩して首謀者13名は切腹、また連座した約50名が遠島・謹慎に処せられた。斉彬派の4人が必死で脱藩し、重豪の子で筑前福岡藩主・黒田長溥に援助を求めた。長溥の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平春嶽(慶永)らが事態収拾に努めた。こうして嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居し、斉彬が第11代藩主に就任したのである。この一連のお家騒動はお由羅騒動(高崎崩れ)と呼ばれている。
藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、安政元年(1854年)、西洋式帆船・伊呂波丸を完成させ、西洋式軍艦・昇平丸を建造し徳川幕府に献上している。
日の丸を日本船章にすべきだと献策し、同年に幕府に正規に採用された。以後、日の丸は日本の国旗となってゆく。また、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。
斉彬は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、水戸藩主・徳川斉昭、尾張藩主・徳川慶勝らと藩主就任以前から交流をもっていた。斉彬は彼らと共に幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。特に斉彬はアメリカのペリー艦隊来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。また、嘉永6年(1853年)11月に既に大石寺に帰依していた、年下の大叔父で八戸藩主南部信順の強い勧めにより、養女である篤姫とともに、現在の日蓮正宗総本山大石寺に帰依した。
安政4年(1857年)の阿部正弘の死後、安政5年(1858年)、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。第13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯、前水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推し、篤姫を近衛家の養女とした上で家定正室として嫁がせるなどしている。一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となってしまい、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。
斉彬はこれに対し、藩兵5000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかしその年の7月8日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病して、7月16日に死去した。享年50(満49歳没)。

天璋院・篤姫
天保6年12月19日(1836年2月5日) - 明治16年(1883年)11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった。
実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫。幼名・一(かつ)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君となった)。
      「
篤姫は、2008年NHKで大河ドラマ化されたので、詳細は省く

西郷 隆盛
西郷吉兵衛隆盛の長子。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門などの変名も名乗った、本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う。
西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて江戸総攻撃に反対したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの求めに応じ、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

大久保 利通
文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる(幼名は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。本姓は藤原氏を称するが明確ではない。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住する。親友の西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学ぶ。
弘化3年(1846年)から藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動(嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると、嘉永6年(1853年)に藩記録所御蔵役として復職する。安政4年(1857年)には徒目付になる。精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教(久光)に税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。万延元年(1860年)3月11日に久光と初めて面会する。文久元年(1861年)に御小納戸役に抜擢、家格も一代新番となる。文久元年12月15日(1862年1月14日)から文久2年(1862年)3月上旬までの間に久光から一蔵の名を賜り改名する。文久2年(1862年)に御小納戸頭取に昇進となる。この昇進により、小松清廉、中山中左衛門、伊地知貞馨と並んで久光側近となる。文久3年(1863年)には、御側役(御小納戸頭取兼任)に昇進する。慶応元年(1865年)、利通と改名。
久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。西郷や小松と共に政治の中枢として活動する。慶応3年(1867年)に江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉ら倒幕派公家と共に、王政復古のクーデターを計画して実行する。王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にで慶喜の辞官納地を主張した。
明治維新以後、慶応4年(1868年)1月23日に、太政官にて大阪遷都論を主張する。明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて失脚させた。
明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを引継いで実施した。そして、「富国」をスローガンとして殖産興業政策を推進した。また明治7年に台湾出兵が行われると、9月14日に戦後処理のため、全権弁理大使として、清に渡った。交渉の末、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。
また、大久保はドイツ(プロイセン)を目標とした国家を目指していたといわれるが、実際はイギリスを目標とした立憲君主制の国家を構想していたという。明治6年頃から明治11年の大久保存命中まで、大久保を中心とした政権であったため、一般に「大久保政権」と言われている。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。
明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていたが、明治11年(1878年)5月14日、石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)(享年49〈数え年〉、満47歳没)。