2009年6月15日
城めぐり歴史ハイク
(福岡城・佐賀城・大野城)






福岡城跡

慶長5年(1600年)黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津16万石から、一躍筑前一52万3千石を得て名島城に入城した。便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵(現在の舞鶴公園・福岡城跡)を新城候補地に選定した。慶長6年(1601年)には築城が開始され、7年後の慶長12年(1607年)に竣工した。
江戸期に数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間に大改修が行われました。


天守の存在論争
従来の通説では、正保3年(1646年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれていないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされています。
近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた元和6年(1620年)3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と天守の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守があった可能性が示されている。天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっています。




黒田孝高・長政父子
黒田長政は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。
豊臣秀吉の軍師として仕えた事で有名な黒田孝高(官兵衛、如水)の長男。
関ヶ原の戦いで一番の武功を挙げたことから、筑前福岡藩52万3000石を与え
られ、その初代藩主となりました。父孝高と同じくキリシタンでありました。

参考資料



鴻艪館







佐嘉神社

佐賀藩10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀る佐嘉神社
直正は藩政改革を行い、大隈重信・江藤新平らの人材を育成しました。
鍋島直正は号を閑叟といい第10代藩主として藩政改革を行い砲台や
反射炉を設けるとともに殖産興業を勧めました。
直大は戊辰戦争で官軍として戦い、明治2年には版籍奉還を申し出た。


松原神社と佐嘉神社
直正の歿後の明治6年(1873年)、直正の威徳を賛え、鍋島家の祖先を祀る松原神社に南殿を造営し、
直正を祀lります。昭和4年(1929年)、直正を祀る別格官幣社・佐嘉神社の創建が決定し、昭和8年
(1933年)に現在地に社殿を造営し、松原神社の直正の霊を遷座しました。昭和23年(1948年)、松原
神社南殿に祀られていた直大の霊を佐嘉神社に合祀し、松原神社は別の神社として運営されていたが、
昭和36年に佐嘉神社と運営を一本化して、現在に至ります。






佐賀城跡
古名は佐嘉城。別名、沈み城、亀甲城。江戸時代初頭に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城で
ありました。
城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城である50m以上もある堀は、石垣ではなく土塁で築かれている。
平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁には松や楠が植えられています。城が樹木の中に
沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵
の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。

龍造寺隆信
戦国時代における肥前の大名で、“五州太守”の称号を好んで用い、「肥前の熊」ともいわれた。
仏門にいた時期は「円月坊」、還俗後は「胤信」を名乗る。本姓は藤原氏を称した。大友氏を破り、
島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦
い(沖田畷の戦い)で敗死した。

佐賀藩と鍋島
佐賀藩は、肥前国佐賀郡にあった外様藩で、肥前藩ともいう。鍋島氏が藩主であったことから
鍋島藩という俗称もあります。明治維新を推進した薩長土肥のひとつです。

鍋島氏の台頭
天正12年(1584年)、(沖田畷の戦い)で敗死した龍造寺隆信の遺児である政家の補佐役として
実権を握ったのが、重臣の一人であった
鍋島直茂である。天正18年(1590年)には政家を廃し、
その子の高房を擁立、直茂はその後見人として豊臣秀吉より認められました。
以後、鍋島氏は主家を圧倒することとなり、秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役、秀吉死後の
関ヶ原の戦いにおいても直茂が大将として参戦した。関ヶ原では西軍に与しましたが、同じ西軍の
立花宗茂を攻略することで徳川幕府より旧領を安堵されました。

鍋島藩の成立後も、しばしば残存する龍造寺分家との対立がおきました・・・これを(鍋島騒動)。
この対立の構図から生まれたのが「
佐賀化け猫騒動」という話であります。

参考資料


アームストロング砲は、イギリスのアームストロング社で作られた物ですが
幕末の薩摩藩は、このアームストロング砲を、佐賀藩から購入しておりました。その理由は・・・→





佐賀城本丸歴史館
佐賀市城内の佐賀城本丸跡にオープンした建物は、幕末期の佐賀城本丸御殿の一部を忠実に復元し
て建てられており、木造復元建物としては日本最大の規模を誇るとか・・・

佐賀城の旧本丸御殿は明治に入り、佐賀藩庁、佐賀県庁として利用され、明治7(1874)年の佐賀戦争
でも焼失を免れ、佐賀裁判所、佐賀中学校、佐賀師範学校、赤松尋常小学校などとして活用された後、
御座間を除くほとんどの建物は大正9(1920)年に解体されました。
2004年8月1日オープンした新・佐賀城本丸歴史館は、この天保期の本丸御殿を復元したものです。




大野城跡
宇美町の南端にある四王寺山には西暦665年に築造された大野城跡があり、四王寺山のいたる所に当時の
面影を残す石垣や建物跡の礎石が残っています。

660年朝鮮半島の百済が強い力をもちはじめた新羅に攻められました。そのとき百済王は日本の大和朝廷
に助けを求めました。そこで663年・中大兄皇子(天智天皇)は朝鮮半島に2万の大軍を送り込みますが、唐と
新羅の連合軍に敗れてしまいました。
大和朝廷は大宰府を守るために朝鮮式山城「大野城」を、この地に築きました。今では国の特別史跡に指定
されています。