澤熊講師と行く・・・2008年6月3〜5日
九州・島原
〔キリシタン文化&雲仙平成新山〕



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大阪南港17:00 (船中泊) 〜 新門司港520 =(バス) = 基山PA朝食
平成新山展望園地=雲仙岳災害記念館=島原城 昼食〔姫松屋本店〕
武家屋敷跡散策=原城跡=口之津・歴史民族資料館=新門司港20時
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今回は、1991年6月3日の火砕流で多数の尊い命を失った雲仙岳の平成新山と、
徳川幕府治政下の最大の反乱天草・島原の乱の最後の激戦地「原城」を訪ねる旅です。

また、切支丹シリーズの2回目で、1回目の天草は2008年4月22日に訪れ済み。
天草・島原の乱天草四郎の事は、4/22の天草編と重複しますので略…ココをクリック。

島原まゆやまロード平成新山展望園地
平成12年3月21日に開通した島原まゆやまロードは、島原市背後の眉山を迂回して、
日本で一番新しい山「平成新山」の間近を通る全長8キロメートルの道路です。
ルート沿いには「平成新山展望園地」があり、火砕流・土石流跡などダイナミックな
自然の営みや日本一の砂防ダム群など迫力ある火山観光を体験できます。

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平成新山
〔2008年6月現在・入山禁止〕
平成3年5月20日初めての溶岩ドームが出現して以来、実に13の溶岩ドームが誕生しました。
ドームは成長とともに幾度かの崩落を繰り返し、その崩落の際に引き起こされたのが火砕流で、
尊い人命がたくさん奪われました。 しかし現在、噴火活動はようやく収まり 溶岩ドームも雄大な
景観を持つ雲仙岳の一部となりました。
島原市は小浜町とともに、最初の溶岩ドームが出現して5年目を迎えた平成8年の5月20日に、
このドーム部分を「平成新山」と名付け、長く続いた災害と新たな復興の記念としました。



雲仙岳災害記念館
愛称「がまだすドーム」平成14年7月1日オープンした全国初めての火山体験学習施設です。
火山を見る・体験する・遊ぶ・学ぶ・憩う。火山に関する知的エンターテイメントがギッシリ詰まった
一大空間です。
平成2年(1990年)11月に始まった雲仙普賢岳の噴火活動から平成8年(1996年)5月の噴火
活動終息宣言まで、何が起き、何が残ったのか・・・大自然の脅威とそれに立ち向かった人々の
英知をあますところなく展示しています。



島原城
寛永元(1624)年、松倉豊後守重政が7年の歳月をかけて築いたものです。五層天守閣を中核に、
大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城でしたが明治の御一新
で惜しくも解体されてしまいました。
島原人の熱意が実って昭和35年にまず「西の櫓」が、続いて39年に「天守閣」を復元することができ
ました。そのとき館内を資料館にして、収集した史・資料を「キリシタン史料」「郷土資料」「民俗資料」
と各階毎に公開しています。



昼食〔城前・姫松屋本店〕

名物・具雑煮

「具雑煮」とは島原半島地域で正月などに食べる独特な雑煮のことです。この「具雑煮」の由来は、
寛永14年(1637年)の島原の乱のとき、一揆軍の総大将であった天草四郎が3万7千の信徒達
と共に原城に籠城した際、農民達にもちを兵糧として貯えさせ 山や海からいろいろな材料を集めて
雑煮を炊き,栄養をとりながら約3ヶ月も戦った時のものが始まりと言われています。



武家屋敷跡
島原城の西に続く一帯を、鉄砲町と呼びます。鉄砲町は島原城の築城とともに形成され、鉄砲町の
名は鉄砲組(徒士)の住居地帯であったことと、造成当時隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の
中を覗くように武家屋敷街が見通せたので、その名がつけられたと言われています。
町筋の中央に流れる清水は、北西の「熊野神社」を水源とし、飲料水として使われ、水奉行を置き、
厳重に管理されていました。
現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで、
山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれます。又、
武家屋敷休憩所では白玉に独特の蜜をかけた郷土の味「寒ざらし」が楽しめます。



原城跡
三方向を海に囲まれた岬の上にあります。お城自体は残っていないのですが、石垣がわずかに残っています。

有明海の岬を利用したこの城は、日野江城の支城として明応5年(1496)に築かれました。
キリシタン大名
有馬晴信の頃は 「日暮し城」と讃えられるほど美しかった らしいですが、
有馬氏が日向へ移されると廃城となり、松倉重政は別に島原城を築きます〔前出〕。
徳川幕府治政下では最大の反乱だった
島原の乱寛永14年 1637)の一揆軍が立てこもり
天草四郎はじめ3万7千人が悲惨な最期を遂げた場所です。
                        島原の乱と天草四郎の詳細は・・・ココを

下写真のをクリックで拡大



口之津 歴史 民族資料館
「口之津」は、島原半島の最南端に位置し、対岸に天草島を望む港は外洋を早崎半島の小高い山々
に囲まれた、波静かな天然の良港です。
「口之津」は、三池築港完成するまでは三池石炭の輸出港でした。
「口之津」は、大阪商船三井船舶の源流のひとつは、ココに始まりました。
「口之津」は、遠く東南アジアへ売られていく「からゆきさん」の悲しい港でもありました。
「口之津」は、国立口之津海員学校が誘致され、約2500人の海の男たちを世界の海へ送り出しました。
「口之津」は、日系カナダ移民第一号の永野萬蔵の出身地です。

与論島にある上野應介の碑に、この口之津の事が・・・
その碑には

 翁は安政元年城字名門上間邸に生まれ,天資聡明誠実,学徳高く既に美髯を蓄えた希有の君子で衆望集まり, 
 明治13年戸長就任。以来21年間の戸長功績極めて多く,殊に教育の振興,農事の刷新,村医制創設や航路開 
 始の便等,その不屈の開発魂と卓抜せる政治手腕は光彩を放ち,本島れい明期を飛躍的に進展させた。
 しかるに連年の風害は翁心痛みの種で就中31年の風災は前代未聞。時に起死回生の途を拓き,子孫永代の繁 
 栄を図るべく私財を投じ自ら陣頭に立ち,
長崎県・口之津へ三度にわたり計750名の分村移民を断行,のち, 
 三池に定住させ移民の父として本土発展への大業を成す。こうして本村分村に至誠一貫生涯を捧げ,大正5年63  
 歳世の巨星は開拓の地で他界なさる。ああ!その卓見と偉業は万古に映える霊峰の如く,恩愛深く屋川の泉のよ 
 うにー。我らは今,2万余の与論民繁栄と往代移住を想い合わせ,島内外郷友斉しく翁の功徳を敬仰し,これを後 
 世に伝えんと深く頭をたれ茲に碑を建つ。
                                                  と、あります。