2008年9月18日

山城探訪ハイク 第4回
高取城跡
城下町の土佐

=南阪奈=壷坂寺(拝観後スタート)五百羅漢高取城跡猿石国見櫓土佐(夢創館)=

 西国観音霊場・第六番・壷坂寺
 西暦703年に弁基上人よって開かれた霊山・壷坂山南法華寺は、
 眼病に霊験あらたかな寺として信仰されています。

0
 境内には、天竺渡来の石彫刻が三体・・・
 釈迦如来石像(総高15m台座含)・観音石像(御丈20m)・槃石像(全長8m)の巨大石仏は壮観です。

 壷坂寺は歌舞伎の壷坂霊験記でも有名です。
 筋立てはご存知 「お里」と、目を患った夫「沢市」の夫婦愛の物語ですが、
 浄瑠璃のサワリ(里の口説き)の部分は、どなたでも一度は耳にしたことが有ると思います。
♪、三つ違いの兄さんと いうて暮らしているうちに 情けなやこなさんは・・・

 又、浪曲の壷坂霊験記では
♪、妻は夫をいたわりつ、夫は妻を慕いつつ 頃は六月なかのころ 夏とはいえど片田舎
 「夏とはいえど片田舎が文法上おかしいのではないかと、つねづね思っていましたが
 最近、もしかして「夏とはいえど固い仲」の洒落ではないかと、妙に納得しております。
 ・・・・・・でも、まだ何かおかしい?、6月の中の頃が「夏」なのかナ〜




 壷坂寺駐車場の横から、高取城跡にむかって細い山道を登ってゆくと、
 ほどなく奥の院の石仏群に出会います。
 凄い数です。
 五百羅漢とされていますが、たぶん数えれば五百体以上になるでしょう。


 山城シリーズで、竹田城・岩村城・備中松山城と巡ってきましたが、今回4回目のこの高取城の
 登りが一番険しい・・・と



 高取城跡
 大和盆地の南端584mの山頂に天守閣を築き、27の櫓と33の門で守りを固め、
 天然の地形を活かして要害堅固な近世の山城として築き整備されました。
 城の築城手法は、平山城様式で今もその難航不落であった壮大な規模の石塁が
 のこり、その歴史を現代に伝えています。


 奈良産業大学が高取城の再現CGを造りました。
 ココを
クリックして、往時の勇姿を偲んで下さい。

0
 1332年(元弘2年)越智邦澄が護良親王の挙兵に応じて高取山(標高584m)に築城した
 「掻揚げ城」が初めで、織田信長の「一国一城」令で一度破壊された後、1584年(天正12年)
 郡山城主の筒井順慶が詰城として整備し、後に豊臣秀長が大和へ入国した時、脇坂安治が
 入城して、次いで秀長の命によって、1589年(天正17年)本田利朝が石塁を築き、本丸に
 大小の各天守閣を起こし、多くの城門を連ねて櫓楼も配され、山城に平城の長所を取り入れ
 た堅固な城を完成し、関ヶ原の合戦の時、徳川方の本多正広が数百の手勢で豊臣方数千
 の軍勢を防ぎました。
 本田氏が断絶の後、1640年(寛永17年)植村家政が2万5千石で入城して大改修を行い、
 麓からも眺められ「たつみ高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」と歌われ、明治2年
 藩籍奉還まで230年間14代続き、明治中頃廃城したけど、幕末1863年(文久3年)8月に
 天誅組
が五條代官所を襲って代官鈴木陣内以下5名を血祭りに挙げ、千余名でもって、
 8月26日婦女と子供を加えた約五百名が守る高取城を攻めるべく押し寄せたが、
大阪夏の陣で活躍した大砲を麓(鳥ケ峰)に据えて撃退したと伝わっています。




いつもの事ながら降りは厄介ですネ。ゴロゴロ石の細い山道は、登りより、降りの方が疲れます。





高取城の城下町、土佐
 「土佐」の名の由来
  六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、故里・四国の土佐国を離れ、
 この地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助もなく
 帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われます。

  故郷を離れて生きて行く生活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な意志は
 故里の名を今の場所につけることであったのでしょう。

  古代、中世を経て近世に入り植村氏が高取城に入部するに伴い、土佐はその
 城下町として政治、経済、産業の中心となり、町筋には商家が立ち並び
伊勢屋、池田屋、観音寺や、さつまや等が名を連ねました。

こんな所に話題の遷都くんが・・・、そうだ、ここは奈良県なのだ