澤熊講師と歩く シリーズ・城めぐりハイク
2009年2月24日
四国
高松城&丸亀城


降水確率70%の中、雨を覚悟しての出発でしたが・・・悪運強く・・・雨具不要の一日でございました。


高松城
讃州さぬきの高松さまの城が見えます波の上.と歌われていた高松城は、またの名を玉藻城
呼ばれていましたが、その由来は万葉集で柿本人麻呂が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだ
ことにちなんで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるといわれています。
♪、玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き…〔巻2−220 〕



天正15年(1587年)に豊臣秀吉から讃岐に封ぜられた生駒親正が数年の歳月を掛けて
この地に城を造りました。生駒氏の治世は、4代54年間続きましたが、寛永17年に生駒
騒動といわれる御家騒動で四代目城主高俊は、出羽(秋田県)由利郡矢島1万石の地に
移されました。
寛永19年に徳川家康の孫で水戸の徳川頼房の子、松平頼重(水戸光圀の兄)が東讃
12万石を領してこの高松城に入り、明治2年の版籍奉還までその子孫が11代228年間
在城しました。


高松城の入口は「西門」と「東門」の2ヶ所あり、我々一行はバス駐車場のある西門から入城します。


 高松城の本丸と天守閣は
生駒氏時代の天守は、絵図によると3層だったとされていますが、
松平時代に改築され南蛮造りの四国最大の規模を誇りました。
明治17年(1884)老朽化を理由に取り壊されてしまいました。
現在は天守石垣解体修理が進められ、天守閣復元に向け工事中でした。

                         鞘橋
二の丸から本丸を結んでいる随一の連絡橋で、当初は欄干橋でしたが、江戸中期末に屋根が付きました。
2009/02/24現在は本丸跡を発掘工事のため、立ち入り禁止となっています。



                         水門
この城の堀は海と繋がっているので、潮の干満による水位調節のための水門が設けられています。
だからこの堀の水は海水・・・試しに舐めてみました・・・なるほど、塩辛らかったですョ
昔は満潮になると「鯛」が釣れたとか、それで幟り旗も「鯛願城就





 月見櫓 〔中央の門は水手御門、その両脇は渡り櫓
天守閣は明治時代に取り壊されてため、この月見櫓が高松城としての雰囲気を今に残しています。
出入りの船を監視する役目とともに、参勤交代の藩主が江戸から帰られるのをコノ櫓から望み見た
ので「着見櫓」とも言われていました。





被雲閣
城内の被雲閣と内苑御庭は、大正6年(1917)に再建されたものです。





 桜御門跡
三の丸入口の櫓門で、昭和20年(1945)の空襲で焼失しました。
石垣には火災により赤く焼けた焼け跡や、金具の錆跡が今も残っています。

                                               ↑
大きな石垣に囲まれた四角い形の広場になっています。形が枡(ます)の形に似ているので枡形といいます。
出陣の時武者をここに集めると,おおよその数がわかるのです。また,表からお城の中が丸見えにならない
ようにするための,守りを考えた広場でもあります。





旭門〔旭橋〕と艮櫓うしとらやぐら
大型バス駐車場の関係で我々は西の入り口から入りましたが、
反対側の入口のココ旭門が大手門となるのでしょうか?。
現在、東南の位置にある艮櫓は、もともと東の丸の北東の隅にあった櫓で、
北東の方角を丑寅という事から、名付けられました。















丸亀城
高さ日本一の石垣に鎮座して400年の歴史を刻む丸亀城は、室町期〜江戸期の城で、蓬莱城、
亀山城ともよばれました。1467〜68年(応仁1〜2)管領細川の被官奈良元安が聖通寺城の支城
として築いたのが初めと云われています。
戦国期には、長宗我部氏の四国統一で一時廃城となり、1587年(天正15)生駒親正が讃岐一国
を領し、高松城の支城として5ケ年を費やして再興しました。
ところが1615年(元和1)の一国一城令でふたたび廃城となり、生駒氏転封のあと讃岐が二分され
西讃岐の大名として山崎家治が入封した。
のち1658年(万治1)に京極高和が入り、相継いで幕末に至ります。
現在、天守閣のほか大手一の門、二の門が残っています。




大手二の門
  江戸時代の初めに建てられた、丸亀城の表門で高麗門とも言われます。
大手とはお城の正面のことを指し、追手とも書きます。大手二の門は丸亀城の顔にふさわしく、
石垣に使用されている石は大きく、ノミの跡も美しく仕上げられています。

大手一の門
  大手一の門は、寛文10年(1670)に建築され、藩士が太鼓を打ち、刻(とき)を知らせていた事
  から”太鼓門”とも呼ばれています。




丸亀城の石垣
内堀から天守閣へ向け、4層に重ねられた丸亀城の石垣は、高さにして約60メートル、
日本一の高さを誇ります。また、扇の勾配で知られる美しい曲線は、丸亀城の美を代表
する石の芸術品としての風格を漂わせています。
傾斜が急で、時々立ち止まって振り返りたくなることから見返り坂呼ばれいいます。




三の丸広場の南東の隅の月見櫓跡からは、正面に讃岐富士が望めます。




天守閣
丸亀城の石垣は日本一を誇りますが、天守閣は、現存天守の内、日本一小さい天守閣です。

現存天守とは、日本の城の天守のうち、江戸時代前後から江戸末期にかけての封建時代に建てられたものが、
現代まで保存されている天守のことです。これ以外の天守は、復元天守、復興天守、模擬天守と呼ばれています。
昭和20年(1945年)頃までは20城の天守が現存していましたが、太平洋戦争で8城・・・・・
松前城水戸城大垣城
名古屋城和歌山城岡山城福山城広島城が惜しくも焼失しました。
現在残っているのは
弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、松山城、高知城、
宇和島城、そしてコノ丸亀城の12城で、松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城は国宝に、
残り8城は国の重要文化財に指定され「重文八城」と呼ばれています。







丸亀うちわは、江戸初期に金比羅参詣の土産物として、朱赤に丸金印の渋うちわが作られたのが
始まりといわれています。天明年間(1781〜1789年)には、丸亀藩江戸詰大目付瀬山登が丸亀藩の
下級武士の内職として奨励したこともあり、丸亀の代表的な地場産業として発展を続けました。現在
の生産量は年間約8,300万本、全国シェアの90%を誇り、平成9年5月に、国の伝統的工芸品に指定
されました。
丸亀のうちわ造りがここまで発展した理由の一つに、うちわの材料がすべて近くで間に合ったことが
挙げられます。
丸亀地方では♪、伊予竹に土佐紙貼りてあわ(阿波)ぐれは讃岐うちわで至極(四国)涼しい
と歌い継がれています。
すなわち、竹は伊予(愛媛県)、紙は土佐(高知県)、ノリは阿波(徳島県)というように、材料はすべて
近くに産地がありました。交通が不便だった江戸時代にはもちろん、現在でも材料が手近に求められ
ることは、大きい強みになっています。