2009年2月25日

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三重県・鳥羽湾に浮かぶ答志島ウォーク
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答志島は、鳥羽港の北東約2.5kmに位置し、本地域最大の島であり、答志・和具地区と桃取地区の
3集落があります。鳥羽城主・九鬼嘉隆が関ヶ原の戦に敗れ自刃した首塚・胴塚の史跡などの歴史
を伝える島です。


答志島上陸の第一歩は魚市場の見学と、昼食を挟んで海岸の海女小屋をめぐります。







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答志の島は、壁や入り口、船等いたるところに墨で「まるはち」の神紋が書かれています。
まるはち」は、家内安全を願い魔よけとして書かれています。
マルハチの八は八幡神社の記しで、年に一度の八幡神社大漁祈願際(旧1月18日)の時に「お的」という行事で運ばれる
神聖なる墨を島の男らが奪い合い、その墨で書かれたもの。「お的」(弓引神事ともいう)は祭の中でも最も盛り上がる迫
力万点の行事です。




西行法師の歌碑
平安末期の歌僧西行法師の家集山家集に「伊勢の答志と申す島には、小石の白の限り侍る浜にて
黒はひとつもまじらず、むかひて菅島と申すは黒の限り侍るなり
」と前置きして、詠まれた四首の歌の
中の一首の歌碑があります。

♪、さきしまの 小石の白を高波の 答志の浜に 打ち寄せてける




柿本人麻呂の万葉歌碑
八幡神社の鳥居の前、階段の入り口に、柿本人麻呂の歌碑があります。
 原文は、『釼著 手節乃埼二 今日毛可母 大宮人之 玉藻苅良武
 よみは、『くしろつく たふしのさきに きょうもかも おおみやびとの たまもかるらむ
 意味は: 『答志の崎で、今日の大宮人たちは 玉藻を 刈っているのでしょう
持統天皇が伊勢に行幸された時、都に残った柿本人麻呂が 宮人たちのことを想像して詠んだ歌です。




迷路のような答志島の町を散策して、緩やかな坂道を進むと、美多羅志神社に出ます。
創立年代は不祥ですが、享保4年の棟札や、延享3年献品の獅子一対、古文書などが保存されている由緒ある神社。
主祭神である美多羅志神は八王子諸神のことで、帯一族に由来するといわれています。明治41年に天王社、山神社、
天神社ほか10社ほどを合祀して、美多羅志神社となりました。本殿は神明造りです。

この木・・・龍の顔に見えますか↑





美多羅志神社の隣潮音寺の観音堂にお参りします。
曹洞宗永平寺派の寺。九鬼嘉隆が追手を逃れ、この寺で得度したと伝えられています。
境内観音堂には3体の聖観音木造立像(平安時代後期の仏像)があり、3体揃って安置
されているのは珍しい(市指定文化財)。




蟹穴古墳
7世紀後半に築かれた径約11m、高さ1.5mの円墳。内部は横穴式石室で天井石は取り除かれ
ています。この古墳からは「世界を駆けめぐる土器」として有名な「
長頸壺」が出土しています。

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    天気予報は「雨のち曇り」でした・・・スバリ当たって、高台に上がると海の遠景が開けてきました。




雨だと中止と云われていた
岩屋山(岩屋山古墳)へ登ることが出来ました。
岩屋山の頂上に、横穴式石室がほぼ完全な形で古墳が残っています。
直径約22メートル、高さ2.5メートルの石組みの古墳で、天井には大きな6枚の岩があり、内部は南南東に開口し、
8.7メートルの両袖式石室。市指定文化財。副葬品は残っていないが、有力な人物が葬られていたとされています。
北川奥の壁部分が破損しているのは、第二次世界大戦末期に塹壕として使用されていたためだといわれ、岩屋付
近は源義経の四天王の1人である伊勢三郎砦跡があったとの伝説が残っています。




      答志島は九鬼嘉隆が自刃した島です

戦国時代に鳥羽城主で水軍の将として活躍した九鬼嘉隆は、関ヶ原の戦いで子の守隆と、
西軍と東軍に分かれて戦い、敗れた嘉隆は、慶長5年(1600)10月12日、和具の洞仙庵で
自刃しました。守隆は家康に父の助命嘆願を行い許されるが、間に合わず、嘉隆の首は
家康の検査を受けるために伏見に送られました。嘉隆の首は持ち帰られた後、鳥羽城を望
む築上岬山上に葬られ
、今も首塚として残されています。
(県指定文化財)
首と胴が別々に埋められているのは、首を奪われることを 恐れたからと云われています。

0九鬼嘉隆の首塚から鳥羽湾を望む・・・・・・正面の小高い山辺りに鳥羽城があったのでしょうか