2009年5月28日
山城探訪ハイク 第8回
姉川の戦い&小谷城

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足利義昭を擁立した織田信長は、朝倉義景に上洛を要請、しかしながら朝倉義景はこれを拒絶し
朝倉討伐の大儀名文を得た信長は、永禄13年(1570)朝倉討伐のため越前に進軍しますが、思い
もかけない信長の妹を妻とし味方であるはずの浅井長政が、裏切り朝倉救援の軍をおこしました。
不意を食らった信長は直ちに撤退することになります。
 京から岐阜に戻り体制を立て直した信長は、2ヵ月後の1570年6月19日北近江に侵攻し、
浅井軍と越前から来援の朝倉影健(義影の甥)軍を相手に姉川北岸の野村・三田村に布陣します。
いわゆる姉川の戦いとなるのです。

朝倉氏の居城「一乗谷朝倉遺跡」には、前回4/9に行きましたので、本日は姉川の古戦場
浅井氏の居城・滋賀県東浅井郡湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)の小谷城探訪です。

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行程
姉川古戦場跡→浅井歴史民俗資料館→ラ・ピラミット(昼食)
→小谷城歴史資料館→小谷城跡めぐり登山

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姉川古戦場跡
姉川はアレっと、驚くほど小さな流れ、勿論当時はもっと広かったのでしょうけれど・・・

姉川の戦いは、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年8月9日)に近江国浅井郡姉川河原(現在の
滋賀県長浜市野村町(旧:東浅井郡浅井町野村 域)付近)で行われた合戦です。
因みに、当時は織田、浅井方ともこの合戦を「野村合戦」と、朝倉方では「三田村合戦」と呼称されて
いました。
尾張(愛知県西部)出身の戦国大名である織田信長は、駿河国の今川氏を撃退し、斎藤氏から美濃
国を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻します。侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政に
は、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいました。信長は、浅井氏からも援軍
を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢親子を破り(観音寺城の戦い)足利義昭
を奉じての上洛を果たしました。
その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前国の朝倉氏に対し元亀元年(1570年)
4月には信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった長政は
信長から離反し、織田軍の背後を襲いました。
優位から一転、突如挟撃された信長は危険な状況に陥りましたが「金ヶ崎退き口」と呼ばれる配下達
の決死の退却戦によって、一命を救われるのです。
信長は、この報復戦のために軍備を整えると北近江へ出陣。その軍力を恐れた坂田郡の堀秀村など
が信長に降ります。
浅井氏の本拠である小谷城へ迫る織田軍に対して朝倉義景は一族の朝倉景健を総大将とする兵を
派遣しました。一方で6月27日には、信長へも徳川家康軍が参着。翌28日、姉川河原で織田信長・
徳川家康の連合軍29,000と、浅井・朝倉同盟軍18,000が琵琶湖へ注ぐ姉川を挟んで戦うことになり
ます。

浅井朝倉連合軍は比叡山の僧兵衆や一向一揆と手を結び、湖西の志賀郡などで激しい攻防戦が繰
り返されました。これらの戦いでは織田方の被害も決して軽微なものとはいえず、それに業を煮やした
信長は浅井・朝倉を支持する比叡山を「焼き討ち」する事になるのです。




浅井歴史民俗資料館

浅井文化スポーツ公園内に建つ浅井歴史民俗資料館は、郷土学習館・糸姫の館・鍛冶部屋・七りん館の4つ
の施設からなり、郷土学習館では、戦国大名浅井氏に関する文書をはじめ、浅井氏三代の居城小谷城模型や
伝小谷城門などが展示されています。





小谷城戦国歴史資料館
小谷城跡めぐりは、戦国歴史資料館近くの追手道から登り、六坊から清水谷で降るコースを約2時間半、
殆どが山道で、足場が悪い箇所があります。

小谷城跡
日本五大山城の一つに数えられ、「浅井長政」と「お市の方」との悲劇の舞台として語られることが多い城です。
標高495mの急峻な小谷山に築かれた戦国時代屈指の山城で、西に虎御前山、山脇山、丁野山があり
小谷城との間には三条川が、南には田川が流れ、背後には伊吹山系が控え自然の要害に囲まれています。
また小谷城は、大永3年(1523)の京極家の内紛の頃に築城されたと考えられます。記録によれば、初期の城
は小谷山最高峰の大嶽(おおづく)に築かれたことが知られます。
本丸を中心とする主郭と浅井氏とその家臣団の屋敷のあった清水谷これを守るように配された出丸金吾丸
大嶽城、月所丸、焼尾丸、福寿丸、山崎丸の独立した砦からなっています。
主要部は、大嶽より南にのびる小谷山最大の尾根にあります。下より番所、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、
黒金門、大広間、本丸、中ノ丸、京極丸、小丸と続き、この尾根の最も高い所に山王丸が位置し、山王丸の北
には六坊を配しています。









小谷城の「お市」と「長政
はじめは政略結婚でありました。
戦国時代随一の美女と謳われたお市は、織田信長の妹として、新進気鋭の戦国武将である浅井長政に嫁ぎます。しかし、夫は同盟より旧縁を重んじて義兄と対峙しました。
たとえ謀叛であろうとも、生き抜いて家と領国を守り抜く、それが戦国の世の第一義。長政もその「美学」に貫かれていました。
お市もまた、時代の荒波に翻弄され続けただけではない。信長の妹だからこそ出来る自分の「役割」を、生きる意義を、織田家と浅井:家との狭間で探し求め続けていました。
この時代の妻はお家の「外交官」であり、家同士が不仲になった場合は妻を丁重に送還したといいます。
しかしお市と長政は姉川の戦い後も離れず、小谷城落城直前には三女・お江も生れます。
夫婦だから許せること、夫婦だから曲げられないこと・・・最終的には長政の死が二人を分かつことになるのですが、お市と長政の間に確かにあった愛情は、歴史の表舞台に立ち続けた三人の娘たち(茶々・お初・お江)に受け継がれたのでした。