澤熊講師と行く 
2009年6月25日
山城探訪ハイク 第10回
徳島城&高知城

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 日帰り旅行で大阪から四国の徳島と高知は、どだい無理な計画なのです。
 だから今日は、「阿波おどり」も「播磨屋橋」も「桂浜」も「坂本竜馬」も無視。 
 城めぐり・の旅に限定して、大阪〜徳島城〜高知城〜大阪と駆け抜けます

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徳島城

この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。その後、室町時代の至徳2年(1385年)に
細川頼之が四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築きます。頼之はこの
地の風光を中国の渭水に例え、渭津と名付けました。
戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わます。天正10年(1582年)には
土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定されます。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波一国
18万6千石を賜わり、入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城しますが、入封早々に現在の地に
大規模な平山城を築造し、翌年完成しました。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城
となり、明治維新を迎えることとなります。。


蜂須賀家政銅像          昭和20年)の徳島大空襲によって焼失した「鷲の門」

鷲の門
 江戸時代に徳島城を建築した際に蜂須賀氏が正門として建てました。廃藩置県により徳島城が0
 廃城となった後も、鷲の門だけは残されていましたが、1945年(昭和20年)の徳島大空襲によっ
 て焼失、1989年9月27日に徳島市制100周年を記念して復元されました。




徳島城表御殿庭園

枯山水の庭と池泉回遊式の庭園で、江戸時代初期に武将で茶人の上田宗箇によって造られた豪壮な石
組みによる桃山様式の庭。 日本の名勝に指定されており、中央公園内には他にも鷲の門などがあります。




四国統一を成し遂げた「長宗我部元親」
家系は秦の始皇帝を祖とする秦河勝の血筋と伝わる長宗我部氏。長宗我部氏第20代当主。第19代当主
長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。諱は元親
管領細川晴元の偏諱を受ける。側室に、の妹の娘がいます。
22歳の時に初陣を飾り、「鬼若子」といわれるほどの働きを見せる。家督を継いで以降は土佐の国人から
戦国大名に成長し、阿波の三好氏、讃岐の十河氏、伊予の河野氏らを破って四国の覇者となりましたが、
天正8年(1580年)、信長は元親の四国統一をよしとせず、土佐と阿波の所領安堵のみを認めて臣従する
よう迫るが、元親はこれを拒絶する。このため信長と敵対関係になり、天正9年(1581年)には信長の助力
を得た十河存保らの反攻を受け、天正10年(1582年)には神戸信孝を総大将とした四国征伐軍が編成され
るなどの危機に陥った。この元親に対する信長の政策転換が、彼との外交を担当していた明智光秀の心
を苦しめた為に本能寺の変に至ったという説もある。ともかく、信長の死で信孝は征伐軍を解体して撤退
したので、元親は危機を脱した。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗する。天正
12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗し、秀吉が送り込
んできた仙石秀久の軍勢を破った(引田の戦い)。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉の四国征伐が行われ、秀吉の弟羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍
が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿讃伊の海岸線沿いに防備を固める一方で、秀吉に伊予1国
を割譲することで和睦を求めたが、拒絶されたため抗戦する。

一説によると、元親が晩年伏見屋敷に暮らしているとき、一度だけ伽をさせられた婢女が子を孕み、生まれ
た子供がいたという。名を信九朗康豊といい、生母の実家で幼少期を百姓として過ごした後、滅亡した主家
を再興すべく兄盛親が大坂城に入城したのに続き、大坂冬の陣、夏の陣と参陣した。大坂城落城後はつて
を頼って駿河に落ち延び、その後しばらく経ってから酒井家に登用され、長宗我部家の血を続かせたと伝え
ている。
また由比正雪の片腕といわれた丸橋忠弥(長宗我部盛澄)は、長宗我部盛親の子孫と称していた。



徳島城跡
徳島市の中央にそびえる城山は、形がイノシシに似てることから「猪の山」といわれ、又、その地勢が中国
の謂水の風景に似ているので「謂津」とも名付けられた。この城は細川頼之が築城しましたがその後
三好
〜長曽我部を経て天正13(1585)年に
蜂須賀家政が入り、これを修築し阿波の本拠となりました。




蜂須賀氏
美濃国に隣接する尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県海部郡美和町蜂須賀村)を領した国人で川並衆の一つ
でありました。正勝の祖父・正永の代までは尾張守護の斯波氏に仕えていたが、斯波氏が衰えたため父の
正利の代には美濃国の斎藤氏に従います。
上述の正勝の代になって蜂須賀氏は織田氏の配下に属して、歴史の表舞台に登場する事となります。
正勝は秀吉の参謀として活躍し、子の蜂須賀家政の代には阿波一国を治める大名に成長しました。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて、家政の子の蜂須賀至鎮が東軍に与し、領土を安堵され子孫は徳島
藩の外様大名として代々存続し明治維新を迎えています。 但し8代目蜂須賀宗鎮以降は他家からの養子
のため元々の蜂須賀氏との血縁関係はない。 また13代藩主の蜂須賀斉裕の実父が徳川家斉であり、最
終的には徳川将軍の血筋となってしまいました。
後に侯爵に任ぜられ、紀州徳川家と並ぶ屈指の富豪華族として知られています。


黒潮観光市場(昼食).




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