2009年7月14・15日

山城探訪ハイク 第11回
丸岡城.七尾城.金沢城


0三の丸広場から見た、(橋爪門続櫓〜五十間長屋〜菱櫓)、金沢城の代表的な光景です。


金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた戦国時代
から江戸時代にかけての梯郭式の平山城です。櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した
海鼠壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出
窓が、金沢城の建築の特徴です。

織田信長が、この地にあった加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院であった「尾山御坊を攻め落
とし、佐久間氏を置いて「金沢城」としました。後に佐久間氏が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により滅ぼ
され、秀吉は金沢城を前田利家に与えます。利家は1592年から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、
5重の天守や櫓を建て並べました。




石川橋を渡り、石川門から三の丸へ



三の丸から橋爪橋を渡り・・・



三十間長屋
二層二階の多門櫓で、石川門と同様に重要文化財に指定されています。
安政5年(1858)に再建されたもので、現在の長さは26間半です。



ここは本丸跡だったのかナ。聞き漏らしたので???です。



五十間長屋の内部見学
二の丸前の五十間長屋は、平成13年7月に復元されました。
明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国最大の
規模で、木造軸組工法で復元された建物です。





尾山神社
慶長4年(1599)3月3日、前田利家公が薨去します。
その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。しかし、当時の前田家は、
なんといっても外様大名の立場です。徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。
利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。
そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉神明宮を遷座する名目で、
卯辰山麓に社殿を建立し、利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。

時代は下り廃藩置県後、旧加賀藩士等は祭祀を継続し、利家公の功績を不朽に伝えんと、
明治六年、旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。
尾山神社と称して、郷社に列せられ、翌明治7年には県社に昇格、そののち明治35年には
別格官幣社に列せられました。また、平成10年には正室であるお松の方も合祀されました。
  尾山神社境内の
  金谷神社・・・二代目藩主・前田利長公をはじめ、十七代までの藩主と正室をお祀りしています。
  さ し石 ・・・旧藩主前田家からの拝領石で、若衆達がこの石を担いで力と技を競ったそうです。
  神  門・・・明治8年の建築で、和・漢・洋の三様式を混用した異色の門で、金沢のシンボルともなっています。
  東神門・・・裏門にあたる東神門は金沢城の建造物中、唯一現存している桃山風御殿様式のもので、
          もとは城内の二の丸にありました。


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