2009年12月17日
全八回シリーズの第B回目

御油宿〜赤坂宿〜岡崎



御油宿
東海道五十三次の宿場のひとつ御油宿は、品川宿から数えて35番目の宿場で、
現在の愛知県豊川市御油町に所在します。
尚、御油宿は
姫街道との分岐点としても知られています。
 姫街道
.東海道見附宿(静岡県磐田市)と御油宿(愛知県豊川市)を結ぶ東海道の脇街道のことで、浜名湖の北側、本坂峠を越える道で、本坂道、本坂街道、本坂通りとも言う。姫街道と呼ばれるようになったのは幕末からだが、名称の由来は、女性が多く利用したためとも、古いという意味の「ひね」の街道から変化したものともいわれる。さらに、前者の場合、東海道新居関所の厳しい取締まりを嫌ったからという説、東海道舞阪宿・新居宿間の今切の渡しの今切を不吉として避けたという説などがある。ただ、実際に姫様の通行があったことは、間違いない。他に、徳川吉宗の時代には、象が本街道の峠を避けて通行したという記録が残っています。



松並木資料館
十返舎一九作の「東海道中膝栗毛」の中で、弥次さんと喜田さんが、
この場所でキツネに化かされたという話は有名。この資料館では、
往時の模型や旅装束などを紹介しています



御油の松並木

御油の松並木は東海道御油宿と同県同市赤坂町の赤坂宿の間にある約600mにわたって271本の松の木が立ち並ぶ。松並木です。
松並木はかつて五街道の各所に存在したが、様々な理由で伐採されたりして現存している松並木は少なく、御油の松並木はその数少ない現存している松並木の一つであります。



ごゆ観音(東林寺)
松風に まねかれいでし ごゆの里 佛のちかい あらたなりけり
と詠まれた【参河国四国50番】【東三河四国70番】【穂の国23番】
の札所です。

東海道が賑わっていた頃、御油・赤坂の宿場は
旅人の給仕などをする飯盛女で街道中に知られ、
宿内の東林寺にはその墓も残されています。






御油宿と赤坂宿はとわずか1,700mしか離れていない
あッという間に赤坂の町へ入りましたョ




赤坂宿の見付跡
見付とは、宿場の入口に石垣を積み、出入りする者を見張ったところで、赤坂宿では東は御油との境に、西は八幡神社入口の片側にありました。




関川神社
松尾芭蕉が詠んだ
     『夏の月 御油より出でて 赤坂や』
の句碑があり、推定樹齢800年といわれるクスノキが目印です。




赤坂薬師(浄泉寺)

赤坂薬師と石像百観音の霊場で、本堂は1776(安永5)年に再建されたもの。
境内には広重が描いたとされる大ソテツが・・・
あったかナ〜?


0コレかナ?0




コノ鰻屋、関係ないです。たゞ前を通った時に、お腹が空いていただけ
しかしこの面構えは只者ではない、頑固親父の経営か

キッと美味しいはず・・・独りで来ていたら入っていたかも・・・




大橋屋
赤坂は,東海道五十三次の宿場町の一つとしてにぎわったところである。全盛期には,旅籠(はたご)や茶屋などが約80軒を数えた。その当時の面影を今に伝えるのが,江戸時代からの旅籠である大橋屋である。
大橋屋は旧屋号を鯉屋と称し,1715〜16年(正徳5〜6)頃の建築で,間口9間,奥行き23間ほどの大旅籠であった。

浮世絵師・歌川広重の描いた赤坂宿のモデルとなった旅籠であるとも言われる。

1878年(明治11)10月には,明治天皇が東海・北陸御巡幸の折に,この大橋屋でお休みになっている。
平成時代の今日も,当時の旅籠としての形態をよく整え,江戸時代の風情を十分残しながら営業を続けている。 【
愛知県総合教育センターのホームページより】

本日の昼食は、当時の面影を残す大橋屋さんで、いただきました。
トロロのぶっかけ御飯は、素朴な味で美味しかった〜。

お腹が一杯になると朝が早かったので眠たくなってきましたよ。
午後は岡崎へ場所を移します。移動のバス中で眠れるか・・・ナ
オヤスミなさ〜い




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