澤熊講師と・2010年1月21日





二条城

二条城は京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城です。
徳川家康の将軍宣下と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと
終焉の場所です。城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が
国宝
に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、
二の丸御殿庭園が
特別名勝に指定されています。
さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。





霊山護国神社
1868年(明治元年)5月10日、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられました。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、日本初の招魂社であります。




坂本竜馬の墓
明治維新史蹟「旧霊山官修墳墓」には、明治維新の誕生につくした志士たち1043名の霊を祀つっています。勤皇・佐幕と対立抗争をくりかえしていた幕末に、「日本はひとつにまとまらなければならない」という大きな視野から新しい時代を構想していたのが坂本龍馬。薩長連合(1866年)を成立させ、海援隊を組織し、世界情勢や貿易の必要性を唱えましたが、同志中岡慎太郎とともに、1867年京都近江屋で暗殺されてしまいました。現在、二人の功績を称えて陵内に銅像が立っています。
拝観料、金300円也…
最近の龍馬ブームにあやかって値上げしたみたいですネ↓
書き直しが目立ち過ぎです。




幕末維新ミュージアム

霊山歴史館
西郷隆盛 大久保利通 木戸孝允 吉田松陰 高杉晋作
坂本龍馬 中岡慎太郎 勝海舟、そして新選組、
幕末の維新史に登場する人物達の数々の資料を展示する、
日本で唯一の幕末維新専門歴史館です。




昼食(湯豆腐の清水順正)




午後は東山から壬生へ場所を移します。




新選組隊士が眠る
光縁寺
四条大宮にほど近い浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたる。1613年(慶長18)頃の創建で、かつて新撰組が壬生に屯所を構えていた頃、この寺の門前に新撰組の馬小屋があり、隊士らは頻繁に往来していたといいます。のちに近藤勇らと対立して切腹させられた新選組副長山南敬介が、当時の住職・良誉と親交があったことから、境内の墓所には新選組隊士27名が祀られ、本堂には、非業の死を遂げ、ここに埋葬された隊士らの位牌が安置されています。




新選組発祥の地
八木邸
八木家は壬生村きっての旧家でかつて壬生郷士(壬生住人士)の長老を
つとめていました。また幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり
旧壬生屯所として知られています。芹沢鴨襲撃の時に、沖田くんか土方さん
がつけたといわれる鴨居の刀傷が残ってます。




壬生寺
壬生寺境内東方にある池の中の島は、壬生塚と呼ばれ、幕末の新選組隊士の墓などがあります。
新選組局長・近藤 勇の胸像と遺髪塔、 新選組屯所で暗殺された隊士・芹沢鴨と平山五郎の墓勘定方・河合耆三郎の墓の他、隊士7名の合祀墓があります。その合祀墓には池田屋騒動で亡くなった隊士・ 奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らも葬られています。 
 
壬生寺は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺の僧快賢である。中世に寺を再興した円覚上人による融通念仏の「大念仏狂言」を伝える寺として又新選組ゆかりの寺としても知られる。壬生寺は通称で、寺号を宝憧三昧寺、院号を心浄光院。

あヽ新選組     新撰組の唄      新撰組の旗は行く



島原遊郭跡
室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりと云われています。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路に二条柳町を開設しました。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出しました。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「嶋原」と呼ばれ「嶋原」の名称は.この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため「島」に喩えて呼ばれたという説など、諸説があります。

島原の文豪歌碑
0島原大門0
0なつかしき やなぎのまゆの 春風に なびくほかげや さとの夕ぐれ 〔蓮月尼〕0
0島原西門0
0華の色は いひこそ知らね 咲きみちて 山寺遠く 匂う春風 〔富士谷成章〕
0大銀杏
0嶋原の 外も染まるや 藍畑 〔嵐雪〕
0島原住吉神社
0住吉の 松の常盤に 春はなほ 色香あらそふ 神垣の梅 〔富士谷成章〕
0幸天満宮
0曇りなく 神の光も やはらぎて ちりづか山に 交わる端垣 〔富士谷成章〕
0東鴻臚館跡
0白梅や 墨芳しき 鴻臚館 〔与謝野蕪村〕


詠み人の詳細
 〔蓮月尼〕
0大田垣蓮月 (おおたがきれんげつ) 1791‐1875(寛政3‐明治8)
0江戸末期の女流歌人。京都の人。大田垣光古の養女で,元の名は誠(のぶ)。
0夫に死別後,出家して蓮月と号しました。通称…蓮月尼
0歌をよくし小沢蘆庵の歌風を学んだ。陶器も焼きこれに自分の歌を浮き出させ
0た蓮月焼があります。
0ひねもす歌と陶器作りに生きた彼女の、手すさびの抹茶碗は、「蓮月焼き」と称し
0て好事家に珍重されています。


 〔富士谷成章〕
0江戸時代中期の国学者。皆川成慶(春洞)の次男で、儒者・皆川淇園の弟。
0柳川藩京都留守居富士谷家の養子となる。通称は専(千)右衛門。字は仲達。
0号は咸章、生まれは京都。子に富士谷御杖がいる。

 〔与謝野蕪村〕
0江戸時代の俳人で、本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章通称寅。
0「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられています。
0俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅」
0など複数の名前を持っています。
0島原の角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごしました。




西本願寺の太鼓楼
西本願寺(京都市下京区)は、浄土真宗本願寺派の本山であり、
その太鼓楼は、幕末には新撰組の屯所に使用されました。
太鼓楼は日本や中国、また古来中国及び、その文化影響圏の城内・都市内・宗教施設敷地内に建てられ、時報など時の合図を発しました。内部に太鼓が設置されており、それを鳴らすことによって時を告げました。



京洛、幕末の旅も恙無く終了でございます。
最後にわたくしの好きな上方唄の一節を…

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京洛の幕末を歩く