2010年6月3日

戦国歴史ウォーク
【長篠の戦いを歩く】



 長篠城跡長篠城址・史跡保存館設楽原歴史資料館設楽ケ原古戦場跡 .



長篠城
三河設楽郡長篠(現・愛知県新城市長篠)
長篠城の沿革
1508年(永正5年) 今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城。
1571年(元亀2年) 徳川家康に服属していたが、武田軍による三河侵攻の一端で、天野景貫に攻め
られ、陥落だけは免れた。その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、
城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。
1573年(天正元年) 前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ.武田軍は撤退
その間隙を徳川家康によって攻められ、城主・正貞は8月には開城退去、
以後、家康によって武田軍の侵攻に備えて、城が拡張される。
1575年(天正3年)5月 武田勝頼は2万5千の兵を率いて奥平信昌が約500の手勢で守る長篠を攻め
後世に語り継がれる長篠の戦いが始まります。
1576年(天正4年)前年の長篠の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり.奥平信昌は新城城を築城。
長篠城は廃城となりました。

城のほとんどは埋没、破壊されていて、現在は畑地や宅地などになっています、
一部に石垣の遺構を残していますが・・・
豊川(当時は寒狭川)と宇連川(当時は大野川)が合流する
断崖絶壁の地点に本丸を置き、その隣に二の丸、三の丸、
弾正曲輪、服部曲輪、野牛曲輪を築いています。
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
我が君の 命にかわる玉の緒は なにかいとわん もののふの道
長篠城主奥平貞昌の臣で、武田勝頼の長篠城包囲の際、徳川家康への
救援の密使をつとめて成功したが捕らえられ、城兵に降伏を促すよう伝達
を求められたが、かえって援軍の来ることを大声で叫び磔刑に処せられた。
磔にされる直前、強右衛門の監視をしているうちに親しくなったという
武田氏の家臣・落合左平次道久が、強右衛門の忠義心に感動し、
磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、これを旗指物に使ったと
伝えられています【逆磔図】。


長篠城址・史跡保存館
史跡保存館は、長篠城本丸の脇?〔前〕にあり、小さいけど、
資料はギッシリ詰って…
長篠の合戦時の武器・甲冑・鉄砲等。戦士の血に染まった
「血染めの陣太鼓」もある。






ページを改めます

次は、設楽ケ原決戦場跡へ向かいます