2007年5月27日
第4回・三浦峠越え



三田谷橋(昼食)惟盛の墓・腰抜田跡船渡橋吉村家跡三十丁石


三浦峠 古谷倉跡 出店跡 矢倉観音堂 西中大谷橋 昴の郷

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熊野古道の小辺路は真言密教の総本山高野山と熊野本宮の
二つの聖地を最短距離で結ぶ紀伊半島のど真ん中を行く山道です。
途中「伯母子峠」・「三浦峠」・「果無峠」と千米級の峰を越えて
熊野本宮に至ります。
本日の行程は、其の中の三浦峠越え
12キロのコースを進みます

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今日のバスのコースはR168号線です。かつてJRの前身である
国鉄がコノ道沿いに五新線〔五条〜新宮〕を計画しましたが頓挫、
以後・近畿の中では一番開発が遅れた秘境とも言えます。
道幅が狭いので80数名がマイクロバス4台に分乗して出発。
途中の休憩は吉野の道の駅大塔
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バスはR168を川津でわかれて、
R733〔川津高野線〕を三浦口の三田谷橋まで・・・

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少し早い昼食のお弁当を済ましてから・・・いよいよ出発です。
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五百瀬バス停側  こんな所に平維盛の墓が
維盛は平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男です。源平の戦いの最中に屋島から逃れて
高野山に入り那智の海で入水したと言われていますが十津川村に残る伝承によれば、

『維盛は五百瀬に亡命し、その血統は
小松姓を名乗った』 と、あります。
・・・何で「小松」・・・
この維盛の父・平重盛は、六波羅小松第に居を構えていたことから、
小松殿ないし小松内大臣とも、称されていました。〔が、関係あるのかも・・・〕


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腰抜田こしぬけた
南北朝の頃、五百瀬を通ろうとした大塔宮護良親王は、五百瀬の荘司に
行く手をさえぎられ、錦の御旗を渡して通行を許されます。
護良親王の家来が怒り、荘司の家来を水田に投げ飛ばして御旗を奪い返す。
投げ飛ばされた家来が腰を抜かしたので、その田を
腰抜田と呼ぶようになり
ましが、明治の水害で埋没してしまいました。



船渡橋(吊り橋)

定員制、20名づつにわかれて渡りましよう。

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船渡橋(吊り橋)を渡ると標高差700mの三浦峠への長い長い坂道…
地元の小学坊主が書いたと思われる
がんばれ の立て札が
厳しいぞ〜 と叫んでいるようです。
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吉村家跡・防風林
三浦集落を登った道沿いに防風林と思われる巨大な杉があります。
胴回り4〜8mで樹齢500年と推定され、かたわらには かつて旅籠を
していたという吉村家の屋敷跡があります。

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三十丁石とお地蔵さま
吉村家の防風林から急坂を進むと、三十丁水の少し上に道標地蔵様と
一緒に三十丁石があり、ここで暫時休息して三浦の峠をめざします。
実は
二十五丁石三十丁水はあまりのシンドさに撮るのを忘れてました
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時々、木々のあいだから展望は開けますが、何しろ山また山、
山ばっかりです。道は細く、行き交う人は皆無でした。

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やっと・やっとの三浦峠・・・しかし皆さん元気や
 〔もうアカンと、言いたいのをグッと我慢してますねん〕
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古矢倉跡
三浦峠からは下りで、昔は茶店があったらしい。〔屋号が古矢倉〕
屋敷跡の西側には天保十年と記された苔生した地蔵坐像があります。

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出店跡
かっては茶店や旅籠がありましたが、明治43年に廃墟になり、
昭和20年代の末頃までは遠方の谷から水路を作り耕作していた
水田が、この辺りに残っていたとか・・・

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五輪の塔
密教で説く五大を表す五つの形から成る塔。
地輪(四角)・水輪(円)・火輪(三角)・風輪(半月形)・空輪(宝珠形)
の順に積み上げる。各面に五大の種子を刻む。 平安中期以後、
供養塔として用い、鎌倉以後、墓標として広く用いられた。〔大辞林〕

この塔は・・・?、熊野詣の行倒れの人たちを葬ったものでしようか



チョッと霞んでますネ。
黄砂の影響がこの辺りまであるのでしようか・・・
まさか〜、そんな目でみると黄色味が・・・

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矢倉観音堂
中央に如意輪観音、左に地蔵菩薩、右に観音菩薩が


降りは、細い崖っぷちの道が延々と続きます。
小道には落ち葉が沢山…
滑るので要々注意です。




舗装道路が見えてきました。ゴールが近いのかナ。ヤレヤレ・・・
膝がチョッとお疲れのご様子ですよ

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道の駅「吉野・大塔」にて・・・手作りの靴ベラ



D回目は
大津越え